時は元禄時代。津和野藩家老多胡主水の奨励により「領内皆茶を栽培するようになった」という記録があります。ここ吉賀町柿木村も当時は津和野藩の領地でした。

今も、多くの家庭で、自家用茶を作っています。庭のお茶、裏山のお茶を摘んでは作る釜炒り茶です。室町時代に造成されたという「大井谷の棚田」(棚田100選)にも、そこかしこにお茶が芽吹いているので、もしかしたら、その頃からこの地ではお茶が作られていたのかもしれません。どの家にもある大釜は、竹の子を茹でたり茶を炒ったりと春は大活躍の道具です。田植えや農作業の合間をみて作るお茶。生活の中にお茶の姿が見えます。

その一方で、正月のしきたりに、若水は、「三杓ほど上の方向へ汲んで入れ物に移して置き、次にお茶の水を汲んでおく(柿木)」とか、若水を汲むときには、「亭主が茶釜に三杓汲む。そのおり、『とんと汲む、若水を。万の宝を吸い込む』と一回唱える。それでお茶をわかして湯のみに入れ、箸で神棚に三回ふりかける。そして、神棚、床の前の神、蔵の前の神、オカマサマに灯明とともに茶を供える。これは三日間、亭主がする。(白谷)」といった記録があります。また、正月の「朝はまずお茶を飲み、焼きもちを食べ。。。。(大野原)」とあるように、年中行事にもお茶が使われていたようなのです。この地域では、元禄の頃の殖産としてのお茶とは別にお茶のルーツがあるように思えます。もっともっと昔から、お茶は人の生活に欠かせない存在だったのかもしれません。引き続き昔の記録を辿っています。

お茶を作る日のことを、「明日、お茶摘むよ」と言っているようです。朝摘んですぐ釜炒りをする人、朝摘んで日陰に置いておいて夕方炒る人、炒ったお茶を一昼夜置いて翌日また火を入れる人など、方法も道具も皆さんそれぞれがいろいろに考えて生みだしてこられたものです。「お茶を作るのも大変だけど、雑草とるのがやれんねえ。それでも、長く続いてきたお茶を自分が終わらせるわけにいかんけえ」とか「自分とこで作ったお茶が美味しいって子供たちが言うけえ」と、自家用茶づくりを続けている家庭がたくさんあるこの町の暮らしがとても美しいと感じます。お茶を飲み比べたりしない。お母さんやおじいちゃんの顔を思い浮かべ、感謝していただけるお茶があることが幸せだなと思います。